2012年8月23日木曜日

富永仲基  ~江戸時代大坂で儒教・仏教・神道を批判した町人学者

富永仲基  ~江戸時代大坂で儒教・仏教・神道を批判した町人学者


富永仲基は江戸時代大坂の町人学者。懐徳堂(官許の学問所)の学風である合理主義・無鬼論の立場に立ち、儒教・仏教・神道を批判しました。
 

【生い立ち】

大坂の醤油醸造業・漬物商を営む家に懐徳堂の五同志の富永芳春(道明寺屋吉左衞門)の3男として生まれました。

懐徳堂で弟の富永定堅とともに三宅石庵に学びました。独特の大乗非仏説(法華経、般若経など、いわゆる大乗仏教の経典は釈迦の言行ではなく、後世の産物という主張)によって儒教を批判したため破門されたといわれいますが、これは富永を批判する仏教僧側からの主張であるので事実としては疑われています。その後田中桐江のもとで詩文を修め、また黄檗宗の仏典の研究に励みました。

元文3年24歳で、『翁の文』を著述、のち延亭2年仏教思想の批判的研究書『出定後語』を刊行、翌年32歳の若さで夭折しました。

富永仲基の説で、特筆すべき第一は‘加上’の考え方にあり、その根底に「善」があること、これが即ち聖と俗とを区別する根本であるとする点にあります。



【懐徳堂】

父の芳春は大坂の尼ケ崎町(現在の中央区今橋)で醤油醸造業を営んでいました。学問を好み、かねてより五井持軒や三宅石庵に師事していた芳春は、懐徳堂創設に当たって自らの隠居所をその敷地に提供し、道明寺屋の手代をその支配人に据えました。また、中井甃庵が懐徳堂を官許の学問所にするための出願に江戸に行くときは同行するなど、懐徳堂の創設と運営になみなみならぬ貢献をしています。当然、息子たちも懐徳堂で学ばせました。懐徳堂創設の年に10歳になっていた仲基は、2歳下の弟定堅(号は蘭皐)とともに懐徳堂で三宅石庵に学び始めました。

 

【加上説】

 仲基はごく若いときに『説蔽』【せつへい】と題する書を著しました。この書は今に伝わらないのですが、後に刊行された『翁の文』【おきなのふみ】によってその概略を知ることができます。彼の独創である「加上説」の理論で儒教を論ずる書でした。加上説とは、後代に生まれた学説はその正当性を示すために、必ず先発の学説を抜こうとして、より古い時代に起源を求め、複雑さを増すものだという考え方です。

 古代中国の春秋時代の人々が覇者の斉の桓公や晋の文公を尊んでいたので、孔子はその上に「加上」して、より古い時代の周の文王・武王・周公を尊崇の対象としました。孔子の後に登場した墨子は、文王・武王よりさらに古い禹を、そして墨子の後の孟子は禹より古い堯・舜を持ち出しました。次に楊朱や道家が黄帝を、許行が神農を言い出しました。つまり時代が下るほど、逆に説く内容は古代に遡ることになります。

 また、世子【せいし】が人の生まれつきの本性については善の人も悪の人もあると言い、告子【こくし】がもともと本性には善悪の別はないと言い、その後、孟子がすべての人の本性は善であるとする性善説を、さらに荀子がすべて悪であるとする性悪説を唱えたのは加上によるのであって、仁斎も徂徠もそれに気づかず末節を論じていると、仲基は批判しました。

 『説蔽』の論旨は儒教を誹謗したものではありませんが、当時の儒学者には孔子をおとしめる不遜なものと受け止められました。仲基はこの書が原因で石庵に破門されたといわれています。

上記は
ウィキペディア富永仲基リンク
懐徳堂とその周辺富永仲基 岸田知子 (78期・高野山大学教授)リンク
から一部引用しまとめました。


小澤紀夫

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