2012年9月12日水曜日

一面的な実験データやツールとしての定説に囚われていては事実を見誤る

実験をするためには、仮説を立てなければならない。実験は検証に過ぎない。仮説とは、それ以前の実験によって得られた事実や理論を論理的に考察することによって得られたものかもしれないし、あるいは観察的事実かもしれない。いずれにしても科学とは、最初に実験ありき、ではありません。

実験や観察で得られた事実とは言っても、実験の前提条件についての議論が有ったように、極めて一面的な結果しか示さない、あるいは限定的な環境下でしか行えないものがほとんどだと思います。比較的実験しやすいと思われる物理学でもそうですね。(ニュートン力学と特殊相対性理論の例を思い起こしていただければわかりやすいでしょうか。)

2012年9月10日月曜日

事実の体系とは永遠に進化しつづけるもの

近代以来の科学の認識手法や、証明・実証などの方法論は、その体系の中では整合していると思います。単純な系に置きかえて近似値を求めたり、インビトローでの特殊な条件の下での実験などから導き出される事実は、現象のほんの一面です。だから、それには適用限界があり、優秀な科学者ほど科学というものが永遠に不完全である(永遠に変化し続ける)ということを知っているという事ではないでしょうか。

2012年9月8日土曜日

「事実」の定義

僕は「事実」というものを、「直接、間接的に検証された事柄」というイメージで認識していた時期がありました。

 が、その「事実」のもとになる「検証」の中身を(例えば、ある実験をイメージして)考えてみると、「検証」(実験)の前提となる設定条件の限定性、実験者の指向性(問題意識)等、案外曖昧な要素を前提にして成立しているものであることに気付きました。

 「検証」がその程度のものであれば、「事実」(狭義)=「人間の五感で観察されうるものごとの全て」、を論理整合させた仮説を「事実」(広義)と呼んでもおかしくない、むしろ「事実」とはそういうものではないか。

2012年9月6日木曜日

怪しげな「検証」と、危なげな「定説」

>適応度にしても、進化速度にしても、分子時計にしても、全て便利で使いやすいように、現状をざっくりと把握しやすいように仮定を立てて数値化した、と考えられます。もともと、ざっくり把握するために「仮定」を置いているということを忘れて、公式のごとく使用するのは本末転倒だと思います。(1988 蘆原さん)

 「そのように定義して計算すればそうなる」というだけだったり、「ある前提条件の範囲内で実証されたこと」を拡大適用するのは禁物でしょう。

林 茂生(国立遺伝学研究所系統生物研究センター)「進化発生学の光と闇」に以下のような一説がある。

2012年9月4日火曜日

現状の「科学的事実」と言われているものの怪しさ

学生時代、研究室で実験系を組むときに、いかにすれば望み通り(仮説通り)の実験結果が得られるかに研究室のメンバー全員が(教授の指導を受けながら)知恵を絞って実験を繰り返している姿を見てきました。恣意的にほとんどのパラメーターを固定し、あるパラメーターのみを変動させる。極端に言うと、「自然」をたたいたりひっぱったりつねったりして望み通りの結果を吐き出させる、といった感じです。

プロの研究者もどうやら似たようなことをしているらしいことを知り、一学者が勝手に「定義」したものを信じるという事にすっかり逡巡するようになってしまいました。

2012年9月2日日曜日

事実と共認について

イヌイットの「白」、日本人の「米」、アラブでの「駱駝」等、生活上の重要度で表現の種類も違ってくる事、要するにこれは文化でしょう。文化=事実という捉え方そのものに無理があります。

誰も事実として認識しなくても(誰も地球が丸いと知らなくても)事実は事実としてあるのです。そしてそれが文化や宗教・個人差によって消されこそすれ生み出されたものではないからこそ、「万人の」といえるのでしょう。音痴な人が絶対音感を認識できないように、自分個人が認識したものしか認められないという見方こそ、固定観念の始まりではないでしょうか。


中野恵